反戦・反原発の運動でも、やっぱり「母」強調するのはアラートが鳴って、わたしは引いて(醒めて)しまう。「まだまにあうのなら」とか。
現代美術家・柴田英里さんの「戦後70年、平和と献身の象徴としての「お母さん」への違和感」を読んでいろいろ思ったこと。
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さらに言えば、「母の献身」や「子供の笑顔」というモチーフは、戦後こそ「反戦」「平和」の象徴として機能してきましたが、太平洋戦争前から戦時中においては、富国強兵と兵士の慰問、「戦争に勝って享受すべき理想の平和」の象徴として、多くの役割を担っていたのです。
様々なイデオロギーに転用可能かつ、ノスタルジーを伴う理想として批判されにくい「母の献身」や「子供の笑顔」を「平和の重要性や戦争の悲惨さ」のモチーフとして利用することは、こうした観点から見ても危険です。(柴田英里さん「戦後70年、平和と献身の象徴としての「お母さん」への違和感」から)
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なんというか、属性でまきとられることへの気持ち悪さ、というものを感じてしまうのだな。
(これは他の団体や組織を批判する意味ではないのですが)
たぶん、「ママの視点で…」とかっていう言語を自分では一生言えない感覚を持っている。これはなんというか生理的なレベル。もう、高校生、大学生のころからだからなあ。
引用したブログが書かれた背景には、以下のスピーチがある。
SEALDsの女子が「~'''家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せを、ベビーカーに乗っている赤ちゃんが、私を見て、まだ歯の生えない口を開いて笑ってくれる幸せを、仕送りしてくれたお祖母ちゃんに『ありがとう』と電話して伝える幸せを、好きな人に教えてもらった音楽を帰りの電車の中で聞く幸せを、
私はこういう小さな幸せを『平和』と呼ぶし、こういう毎日を守りたいんです。'''~」と、スピーチして物議を醸したといふ。
http://togetter.com/li/853788
(詳細は↑のやりとりにありますが、疲れます)
うーむうーむ。
確かに、上記のような感覚を持つ私からすると「オナゴオナゴした、かわいいスピーチ過ぎるだろっ!」ってツッコミたくなるわけですよ。
「母、あかちゃん、おばあちゃん、恋人…」。なんというかなー、短い中に、男子や年齢層↑の人たちの好感度をアップさせるフルセットあるなあと。ありすぎだなあと。(歪んでます、すみません)。
わたくしだったら、オナゴオナゴし過ぎていて、人前のスピーチでは言えなかったなあと。
無意識なんだろうし、何を幸せに思うのかはたぶん、育ってきた環境が育てた価値観があるので、一概に異論を唱えるつもりはない。
ただ。
なにかが、かすかに、アラートを鳴らすんだよな。
「ちょっと、そのスピーチの描く像が、なんかもう、サービスしすぎではないか?」という言葉が一番しっくり来る。
そのアラートを言葉にしてくれたのが、柴田さんのエントリであった。
作文だったら、直すために対話できるんだけどな。
このスピーチした大学生は、実は安倍首相への抗議と同じぐらい(あるいはそれ以上に)、大切な視点を、多くの人が考える機会を提供したと思うな。
下手をすると「銃後」に巻き取られていく「幸せ感」でもあるから。
傷つく必要はないけど、気づく必要はある。
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