「当事者」の時代 (光文社新書)
「ぼくは僕の木をみて、君はきみの木をみている。ただそれだけ」というメッセージを10代のころにある人に言われたことがある。
同じ人の話をきき、同じ時間を共有していたとしても
受け止める「私」がある「物語」をそこにつくってしまう。
それに気づいたときに、結局「記事とは自らを語るに過ぎない」というごく当たり前のことに行き着く。
自分が新聞社にいられなくなったのは「マイノリティ憑依」に違和感を感じてしまうようになったからかもしれないと今にして思う。
あたらしいやり方、どこに立てばいいのかが、わからなかった。
辞めた今も、探している。
だから
同じように探している佐々木さんには、共感する。
あるいは、
記者がどんなに努めても、それは記者からみえる風景、彼・彼女自身の「物語」なのだ。
私が書いているのは「私の物語」なのだ。
それぐらいに思っていてちょうどいいと、私は思う。
佐々木さんが紹介している共同通信社のスター記者・斉藤茂男さんの連載シリーズを、当時10代後半であった私は夢中になって読んでいた。
「こんな現実があるなんて」と憤慨する気持ち、どうにかしなければという気持ちもあったが、はっきりいって、読み物として面白かった。
「日本の病弊」を体現したような人のくらし(本書のなかではのちに「奇人変人祭り」と揶揄されるようになる)をのぞき見ることが面白かった。佐々木さんが言うように「エンタメとして消費」していた部分は否定しない。
「勧善懲悪」と「マイノリティ憑依」というフレームは、今やマスメディアだけでなく、総発信者の時代を迎えて、多くの人たちに内面化されている気もする。わたしは、それがなぜか、何とも気持ち悪い。
自分と対話しないための仕掛けにさえ思えてしまうのは、意地悪な見方だろうか。
「わたし自身はなんの当事者なのか?」
生きている限りなにかに直面しているはずで、「記す者」であるわたしは自分自身の物語を語り始める、オープンにすることからしか、他者にはつながれない。
自分自身の傷や喜びを語り始めない限り、対話の空間は生まれない。
対話がなければ、これまで同様のフレームに織り込むための情報を「Takeする存在としての記者」としてしか存在できない。
みずからのコトを話し始めて、対話を始めると、どこに連れて行かれるか分からない怖れが生まれる。
「マイノリティ憑依」と「勧善懲悪」的なフレームでは処理できない、混迷ともいえる多様性に身をさらさなければならないからだ。
ちいさな「わたし」が予想していた物語の枠など吹き飛んでいく。言葉も失う。
ダイアログがその場で生み出す知のようなものを、メディアはどのように扱うのだろうか。
とりとめがないけれども、読了直後の言葉として記しておく。
しかし、もしかしたら佐々木さんはこの新書のなかで「ジャーナリスト」という言葉をきわめて使っていないように思える。
もし意図的だとしたら、そこには何か意味があるのだろうか。
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