2015年4月29日水曜日

ふるさとがなくても しあわせはある

メディアのストーリーづくりに違和感を感じる。

(しあわせだった)「過去に戻れないから不幸だ」というストーリーを繰り返すのはなんのためなんだろう。
それがむしろ「不幸な場所にずっといなさい」というメッセージと同義に思えてしまうのは、ひねくれた見方なのか。

忘れることも力にして、
失ったことを受け入れて
あたらしい場所で
「自分自身がしあわせになることを最優先にしていい」と、思うのだけれども。
逝ってしまった人たちも、生き残った人にしあわせになってほしいと思っているに違いないのだから。

ふるさとに帰れないから不幸なのか?

小声で言うが
たとえ
だれかの「せい」だとしても
そこで責め続けているのは
徹頭徹尾正しいのかもしれないけれど
実は
しあわせではなかったりする。


昔々から
ふるさとから江戸や横浜に流れ着き
帰らないと決めて「いま・ここ」でしあわせになっている人は山のようにいる。

過去を振り向かないで、これからを創ると決めた人に
しあわせは来るのかなと思う。


何かを失いながら、人は生きていく。
ふるさとの家はあっても
住む人がいなくなり、荒れ果ててしまうことは
ふるさとを失うこと。

生きてきたこと自体は、まぎれもなく事実で
それの祝福は汚されることはない。

どんなしあわせな過去があった土地から切り離されても
また、人はしあわせになれると思いたい。

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